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疑問に思ったことは掘り下げてみたいよね!

ちまきはもち米の三角が普通だったはずが京都のちまきは和菓子!?

新潟県柏崎市出身の私にとって、『ちまき』というのは三角ちまき以外には考えられません。

しかし、奈良県出身の妻が差し出した『ちまき』は・・・かなりのカルチャーショックでした!

しかも、新潟県柏崎市では、『ちまき』は端午の節句には食べないのです(柏餅は食べましたが)^^

日本の代表選手のちまき3種類を独断で選んでみました。

なお、ちまきは中国からの伝来品ですが、日本に来て、各地で独自の発展を遂げたという観点から選びました。 中華ちまきは、中国や台湾の文化そのままと考えて、外してありますm(__)m

1.古からの文化を育んできた京都を中心に食べられている細長いちまきです。

2.新潟県を中心に食べられている三角ちまき!絶対にイチオシです。

3.鹿児島県を中心に食べられている「あくまき」

あくまき』。竹の皮で包まれているところや、その色合いは、新潟県の三角ちまきとはだいぶ様相を異にするのですが、もち米だけを使用したり、食べるときにきな粉を付けるといったところは共通しています。

また、もち米だけを使用しているにもかかわらず、その食感がわらび餅や葛餅の粘りを強めたような感じであるところは、京都のちまきに似通っています。独自の発展を遂げた『あくまき』!面白い文化ですね。

 

端午の節句ちまきを食べないのが新潟県柏崎市

日本各地、端午の節句には、ちまきと決まっているようです。もちろん、かしわ餅もはずせませんが。

私も18歳まで過ごした柏崎市にいた時分は、端午の節句にはかしわ餅を食べていました。

 

でも、柏崎市では端午の節句ちまきを食べる人はいないと思います。 柏崎市ちまきを食べるのは、6月に入ってからなんです。

 

なぜか?

 

柏崎市では6月14日から16日まで、『えんま市』が開かれます。そのえんま市に合わせて、ちまきと笹団子が作られるためです。

私の思い出は1970年代に凝縮しているのですが、当時はちまきや笹団子を、どこかのお店で買ってくるなんて家庭はなかったはずです。手作りが当然で、各家庭の味を出すための、主婦の腕の見せ所でした。

私の母親も、どこからか大量の笹を仕入れてきて、あんこも自分でこしらえて、笹団子やちまきを作っていました。

 

作る量が半端ではありません。 ですから、えんま市の頃は、笹団子やちまきは朝食やおやつ替わりでした。 朝から甘い団子も食べるわけですが、当時は本当に一般的な光景でした。

友達の家に遊びに行っても「ちまき食べるか」なんて言われていました(^^;)

笹団子は、ヨモギを混ぜた餅の中に餡を詰めて丸め込み、笹の葉で包んで蒸します。笹の香りが懐かしい・・

 

新潟県ちまきは、もち米だけを笹の葉で三角に整えます。蒸しあがったものにきな粉を付けて食べるんです。きな粉には砂糖とちょっとの塩を加えます。おはぎのあんこがない、きな粉バージョンですが、これが美味いんです。

素朴だから、なんてものでなく普通に美味い!もち米の食感ときな粉の甘味。いつも食べ過ぎてしんどかったように思います。

 

取りあえず、ちまきの由来とは!

残念ながら、日本が発祥ではありません。 端午の節句の行事と同じく、原型は中国から伝わった風習です。 ただ唯一、柏餅だけは日本で生まれたようですが。

中国は戦国時代、紀元前278年のことです。楚(そ)の国の高名な詩人、屈原(くつげん)は国王の側近としてつかえ、人々からも慕われていました。しかし陰謀のため国を追われることになった屈原は、ついに汨羅(べきら)という川に身を投げてしまったのです。その日が5月5日。屈原の死を悲しんだ人々は、たくさんのちまきを川に投げ入れて弔いました。 ・ ところが漢の時代に、里の者が川のほとりで屈原の幽霊に出会います。 幽霊曰く、「里の者が毎年供物を捧げてくれるのは有り難いが、残念なことに、私の手許に届く前に蛟龍(こうりゅう)という悪龍に盗まれてしまう。だから、今度からは蛟龍が苦手にしている楝樹(れんじゅ)の葉で米を包み、五色の糸で縛ってほしい。」 と言いました。 ・それ以来、楝樹(れんじゅ)の葉で米を包み五色の糸で縛って川へ流したので、無事に屈原の元へ供物が届いたのでした。 ・これが粽の始まりと言われています。屈原の故事から、中国では五月五日の節句には、節物として粽を作り、親戚や知人に配るという習わしが生まれました。 引用【ちまき(粽)と端午の節句の関係はおおいにあります。】より

上の記述を前提にすると、元々のちまきの中身はお米ということになりますが、関西のちまきの中身はお米でないものもあります。

 

ちまきが中国から伝えられた頃(1000年ほど前)は、都は京都にありました。 伝来当時は、ちまきの中身はお米オンリーだったのでしょうが、京都独特の雅な文化の中で変遷していったように思います。

ですので、京都を中心として関西では餅の中に餡を包み込んだり、もち米を葛餅に替えるなど和菓子のようなちまきが普及したのでしょう。

妻は奈良県出身ですが、その実家で出された『ちまき』は、甘く味付けされたクニュクニュの和菓子のような感じでした。米粉も入っていたのかもしれません。

えんま市とは?大人も子どももソワソワする一大イベント!

1970年代当時は、当然ネットなんてありません。 娯楽はテレビだけ。情報はニュースや新聞だけ、なんて時代でしたから、えんま市での露店でも文化を吸収していたように思います。

柏崎市には、「閻魔堂」という閻魔大王を祭るお堂があります。とても小さいお堂です。そのお堂を中心に市が開かれたので、えんま市と呼ぶのではないかと。18年も住んでいたのに詳しくいわれを知らないのが悲しいです。

 

とにかく、えんま市は、お正月やクリスマスに匹敵する、いやそれ以上の一大イベントでした。 当時は、小学校でしたら、午前中で終わりでした。昼から友達と繰り出すのです。

地球ゴマや十徳ナイフなんて、喉から手が出るほど欲しかった記憶があります。 もっとも、地球ゴマは親と一緒に行ったときに買ってもらいましたが。

 

また、今では全国どこにでもあるたこ焼き!当時の柏崎市には、たこ焼きを売る店なんてありません。こんな美味いものがあったのか!!と超衝撃だったのを覚えています。年1回しかたこ焼きが食べられないなんて・・・そんな田舎でした。

その後、京都に住むようになり、アホほどたこ焼き食べましたが^^ もっとも、関西ではたこ焼きは自分の家で焼くもんです。 どこの家庭にも必ずたこ焼き器があります。これ、本当です。

いつか、えんま市に行きたいなぁと思いつつ、でも、京都の南の端から柏崎市までは恐ろしく遠いんです。 いつも6月になると、望郷の念に駆られています。何歳になっても、えんま市の期間を体が覚えているようです。

 

ちまきの食べ比べも乙なもんです。

もちろん、私のイチオシは三角ちまきです。きな粉をたっぷりつけて頬張ってみてください

 

関西で食されているちまきは上品な和菓子風です。

 

鹿児島のちまき『あくまき』も話のネタになるのでは?

 

 

ちまきを頬張って、故郷を思い出してください。

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